神秘主義と合一について      20200522

神秘主義と言えば、まるで異様な儀式を行う宗教を想像されるかもしれない。しかし、哲学や宗教学で使う「神秘主義」という言葉は、あくまでも超越的な存在に人間がつながることができるという立場のことを言う。

ネットで三省堂「大辞林 第三版」を拝読すると、神秘主義の説明は次のように書かれている。「絶対者・神などの超越的実在は、感覚や知性の働きによっては認識できないので、それらを超えて何らか直接に体験しようとする」とある。

要するにこれは一つの立場であって、実践的に絶対者や神を体験しようとする、あるいは人間にはそれが可能であるという立場が神秘主義であると言える。

ところで、少し思うことがある。それは「合一」という言葉についてである。たとえば、仏と合一するとか、神と合一するという類いの言い回しである。私はこの言葉には少し慎重になりたい。

私自身も「合一」というふうに表現される世界を体験したことがないわけではない。私は瞑想によって、それを行っているし、催眠の中でも体験が可能だと考えている。

しかし、「合一」という言葉はまるで仏や神と自分が一体であるかのような感じであるが、だからと言って「自分が神である」とか「自分も神である、仏である」というようなものではない。

このようなことは人間の側からは言えないことである。たとえ、通常の意識を離れて超越的な存在とつながっているという感覚を瞑想の中で感じているとしても、そのように感じている私という意識は私の限界の内側に存在する。その意識は神的でもなんでもない。人間の意識にすぎない。

瞑想においては、確かに自分で何かを意識することを離れるところに入ってしまうことがある。その段階では意識というものはまったく別次元に飛び込んでいるかのように思う。おそらく仏教でいう「止観」とはこのようなものだろう。

では、このような瞑想をしているからと言って、神と合一していますなどという傲慢な表現は避けなければならない。だが、合一を説く時に、神という絶対他者など存在しないと述べて、あえて他者ではなく合一するのだという言い方がなされる場合がある。しかし、私は絶対他者は存在すると思う、あるいは人間はその存在を否定も肯定もできないと思う。なぜなら、人間は有限であり、絶対他者は無限であるからだ。

瞑想においては、あえて合一という言葉で言うならば、確かに自分が何かと合一しているのだろう。しかし、相似と合同という図形の言葉があるように、おそらく、相似のように人間の中にある部分が溶け合うような相似部分を得ている状態なのだろう。だが、合同ではない。部分が超越者につながってはいるのだろう。だが、自分の側が超越者と合同とか等価となっているなどというものではありえない。ましてや、自分が神なんだというようなことはありえない。

人間は自力で超越者に到達できない。なぜなら、人間は有限な存在に過ぎない。しかし、超越者は無限な存在である。有限な存在は自分の限界を超えた無限な存在を把握できない。

仮に合一が起こったとしても、超越者の全体の何と、あるいはどの部分と、どれほど深く、どれほど広く合一しているのかを知ることはできない。ただただ、超越者に自らがとらえられているに過ぎない。それゆえ、「合一」という言葉は私個人としては使うことを避けたいし、ましてや合一によって、人間が神であるなどというのはありえない。幻想であると思う。

 

 

 


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