キリスト教会のトラウマ

20200902

私は現在も日本キリスト教団の牧師でもある。「でもある」というのは、昨年末をもって教会を辞し、いまは心理療法家として働いているからである。しかし、まだ牧師(正教師)として登録されている。そんな私の脳裏には、キリスト教会という集団をどのように見るのかということが時々かすむ。

とかく、日本の教会というのは社会問題に対して消極的である。その原因は、牧師時代から考え続けているが、つぎのようなことが思い当たる。

一つは、戦時下において日本の宗教は国家管理されたことと関係する。たとえば、宗教団体法という法律ができ、軍政下で日本のプロテスタント教会は大同団結をしいられた。各教派の特徴などあったもんじゃない。その大同団結の結果、日本キリスト教団が生まれ、教団代表は伊勢神宮へ参拝して教団誕生を報告した。

その後、教団全体が戦争協力へと駆り立てられたが、一部の良心ある人々は戦争への抵抗を示した。だが、とんでもない弾圧を受け、投獄や獄死すら起こった。礼拝に憲兵が来て、牧師の発言をチェックしていたという。

私の知人にも、「キリストと天皇陛下はどちらが偉いか」という質問を憲兵に投げかけられたというおじいさん(当時は青年)がいた。彼は天皇陛下もキリスト教の神様もどちらもこんな下々の者が比べるのも恐れ多いですと答えたそうだ。そして、その場を何とか切り抜けたと言っていた。

そんなとんでもない時代を通り抜ける間に、日本のプロテスタントはキリスト教の神が天皇制をも超えた唯一絶対の神だとは言わなくなった。いや、天皇制や政治には語らずという悪い癖ができたのだろう。

そして、戦後は戦後で大変だったようだ。GHQ統治下で宣教師たちが日本にやってきて教会をつくった。GHQの目が教会の中にも向けられたであろうことは想像される。しかし、まさか反米意識を持った教会を宣教師がつくることなどありえなかっただろう。

そうなると、戦時下で培った社会問題や政治には「見ざる、言わざる、聞かざる」というキリスト教会のスタンスは終戦後には自然と受け継がれることになったのだと思う。

今でも、キリスト教信仰はこの世の事にはかかわらないという調子だ。政治がらみのことについては、何も語ろうとしない。いや語っている人もいるにはいる。だが、少数派であることに違いはない。

では、現在はどうなのか。戦後75年、もう変わってもいいだろうと思いたい。だが、それでも変わりばえしない。その理由は何なのか。そもそも宗教とは何をめざすものなのか。

考えてみると、宗教に何を期待しているかは、人によって異なる。あるいは、言い方を変えると階層によって異なると思う。金持ちが私有財産を否定するような宗教に入ることは、ほぼほぼないか、とても珍しいことだろう。

あるいは、自分を鞭打ってくださいというような禁欲的自己否定など、あまりお目にかかったことがない。時代の権力と反目することなく、政治について語らないで天国のことのみを語る、そんな感じの人々が集まったところで、いきなり政治問題や社会問題と言っても彼らにはなじまない。

もちろん、平和を語る時もあるが、それも、戦争はいけないという道徳律的な教条を宗教的に焼き直したようなものとなる。

まさか、具体的に北朝鮮の核問題について語りはしないだろう。なぜなら、心の平和や平安はこの世の雑事と離れたところにあり、そんなものとは一線も二線も引いている小市民的思想が蔓延し、現実問題にはまったく歯が立たないような精神構造が構築されるのである。

いや、しかし、長崎のカトリックの殉教者や再洗礼派の非暴力平和主義による抵抗と殉教の歴史を考えるならば、キリスト教は本来反権力の宗教だったのではないのかと思う。

(堀 剛)


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