神が本当に存在するのだとすれば、神自らが神の存在を人間の世界に示せばよいのである。あるいは、神にとってそのような必要がないのかもしれない。そんな言い方はいささか乱暴なことだろうか。
人間の方は躍起になって神を信仰したり、神は存在するかどうかと真剣に論じている。また、神にすがろうとしたり、頼ろうとする人もいる。それでも、神の方から自らの存在をあらわにするというのでもない。
そもそも理性において、神認識が可能であると言えるのだろうか。人間の持つ心というものは形のないものである。それと同じく、神もまた形がない存在なのだとすれば、可視的な存在として神をとらえることはできないと言わねばならない。神の存在は物理的存在であるとはとうてい思えない。だから、理性においても、神の存在を確認することはできないと思われる。
そうだとすれば、神を認識する方法は、理性を主軸とするものでは起こりえないと考えざるをえなくなる。神を認識するのは、人間の意識が理性とは一線を引く時、心理変容の世界で可能となるのだと思う。そして、心理変容という事象はきわめて身体的なものを含んでいる。机上でのみ論じられる事柄ではない。そしてまた、心理変容は言語を超えた直感的なものを含んでいる。そのような中で初めて神の存在が感受されるのである。(こればかりは体験的なものであり、かつ意識をそのような状態に持って行くことが可能である人にしかなかなか判りづらいだろう。)
そこでもし、宗教に何らかの使命が存在するとすれば、宗教は神についての感受を人間に提供するひとつのあり方なのだと思う。
だがどうだろう、とかく宗教は神について語るが、人間の言語であたかも語りうるかのごとく宗教儀式の根幹部分に語りを置いているのが、プロテスタントの礼拝である。彼らは語るのみではなく、エクリチュールである聖書の中の言語で神を説明しようとする。
しかし、人間の言語で神について語るとしても、そこに言語を超えた変容の世界が伴わなければ、それこそ言語というツールを用いた共同幻想の中に埋没する可能性がある。日本語であったり、英語であったりというような人間の音声的な言語で神に、あるいは神を語ることができるという発想そのものが、理性的な枠組みから抜け出ていないのである。神に通じるためには、言語性を超えたところで神と相対していかなければならないと思う。
だが、本来、多くの宗教が私が考えるような変容の世界を持ち合わせているのだと思う。いや正確には、かつて持ち合わせていたと言う方が正確かもしれない。例えば、仏教におけるお経を唱えるということも、お経の中身の理解という論理的側面が重要であったとしても、唱えるという行為の中で心理変容ともなってくることの方が重要なのだと思う。
しかしながら、葬儀などにおいても、僧侶から唱えることの意義とお経そのものの意義を事前に説明を受けたことなど一度もない。そのことは極めて不可思議に思える。せめてその説明が事前にあれば、そこに参列する人は何に参加しようとしているのかくらいは心構えができようというものだ。それがいかほどの深みのあるものであろうが、なかろうが、参加者らはそれなりの備えをできるように思う。だが、それがなければ、そこに居合わせたということのみで、何らかの納得をせざるをえないし、儀式とはこんなものだとか、宗教とはこんなものだいうような納得をせざるを得ないだろう。これは宗教家としての僧侶にとっても一般の参加者にとっても残念なことだと思う。
話が少しそれたようだから、本論に戻ろう。一言で言えば、心理変容のない宗教はつまらない。また人は心理変容においてこそ癒される。これはユング心理学を起点とする様々な心理技法にとっても共通なことであるが、学説がどうあるかというようなことではない。
ところで、認知療法は心理変容というよりは、思考のあり方を論理的に変化させることを目指している。だが、第三世代の認知行動療法というものが既に紹介されるようになった。そこではマインドフルネスが唱えられ、呼吸を用い静かに自分を見つめようとする。これは私のように以前から催眠を学んで来た者にとっては、どうみても自己催眠の一つの技に思えてしまう。おそらく、それは認知療法家や認知行動療法のセラピストがかつては見向きもしなかったであろうものだと思う。
しかし、人間はやはりそのような変容へと行かざるを得ないのだ。心の救いとか、癒やしとはそういうものなのだと思う。(堀 剛)