「神秘主義と合一について」補足  20200525

「合一」という言葉は、まるで超越者との同一、あるいは図形で言えば合同のような感じがあるので、私には使いたくない言葉だ。

私の場合、超越者の存在は唯一のものであり、あるいは数として数えることすらできない存在という観念が自分の中にあるのかもしれない。

もしや、「合一」という言葉を使う人が、神や仏、超越者と合一するという際に、合一において自分が神となるというような意味で考えているとすれば、とんでもない間違いだと思う。

たとえば、仏という存在がどのようなものであるのか、私は正確にはわかっていないが、仏が多神教的に複数存在するのだとすれば、仏と合一すると言ってみたところで、複数のうちの一つと合一しているということになるのかもしれない。

合一というものは、親鸞的な言い方になるが絶対他力において実現すると思う。人間の側から超越者に合一することなどできない。超越者の側から人間に接近するというものでなければ、そのようなことは起こらないと思う。なぜなら、人間は無力であり、親鸞の言葉で言えば「悪人」であり、そのような存在が超越者に接近するのは、超越者の側からも働きがけがあってこそ起こるのだ。

だから、自分で苦行を行い、生きたまま即身仏になることなどは、あらゆる意味で疑問を感じてしまう。

繰り返し、合一について言えば、人間は祈りや瞑想の中で超越者と合一すると言っても、それは「一」になるのではなく、超越者の懐に抱かれるような状態を言うのだと思う。

 

 

 

 

 


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