私的言語と伝達についてのメモ

UFO

堀 剛

アンカレッジ到着三分前
もう氷河や自動車すら見える高度だ

雪の大地に
確かな光体を見たのだけれど
「見た」という「事実」について
「フラッシュのように光を放ち移動した」と
語ってしまえば終わりだ

かかわる形容詞がない
動詞も
述語がないのだとしたら
あらゆる事実は方向を失う
僕らに

「見た」僕はありえても
見られたものが存在するなどと
とても言えない気がして
僕の行為は確かに存在したなどと
言い切るだけで終わっていく
一九八八年一月十五日
大阪発AF273

あるいは
世界とは方向のない「事実」だった
などと
僕は言いたくはないのだけれど

これは実際に私が着陸前のジェット機の窓から大地を見た時に、見えたものについて書いたものである。この詩は私的言語ではないと言いたい。しかし、その事実を確認する標識のようなものがない。あっても、それは未確認な物体(UFO)なのだ。

ヴィトゲンシュタインは次のように言う。
「本来、私的な体験について本質的なことは、本来、各人が自分固有の標本を持っているということなのではなくて、他人もこれをもっているのか、それとも何か別のものを持っているのか、誰も知らない、ということなのである」(PU272)

私的言語には、指し示す共通項としての何らかの記号が存在しない。例えば、何を論じているかが欠落する。それはヴィトゲンシュタインが歯痛について語るのと同じである。いかなる他者の痛みの表明も、痛みそのものとしては誰一人感じることはできない。歯が痛いということについて実際の痛みとしては伝達できないのである。彼に伝達されたとすれば、それは発語される者がそれまでに経験した歯痛を思い起こすことによって、発語者の歯痛を想像しているのである。(キェルケゴール的に言えば、これこそ直接的伝達ではなく、間接的伝達に相当する。また、このことはヴィゴツキーの内言との関係でも考察が可能である。)

 


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