神秘主義者としてのキェルケゴール  20200509

デンマークの哲学者キェルケゴールは、晩年には国家教会へ痛烈な批判を行った。彼は『瞬間』と名付けられた雑誌を出版し、国家と教会の分離を説いた。

教会と離れたところで、彼は信仰が個人的なものとして成立すると考えた。キェルケゴールにとって、信仰は国家制度の中に位置づけられるようなものではなく、自分と神との実存的な関係の中で成立するものであった。それゆえ、彼は単独者という言葉を使う。

キェルケゴールの『キリスト教の修練』などでは、イエスという一人の男がキリスト(救い主)であると、誰も直接的には気が付くことが困難であったと指摘する。そして、理性的なものへの逆説を通して神の存在が示される。それは安直に信じうるものではないし、小市民的な自分のご利益とリンクする信仰とは無縁のものである。この世と対立する真理としてのキリストにいかにして追従するかということが、キェルケゴールにとっての課題なのである。

たとえば、原始キリスト教団のような時代においては、キリスト教会は国家権力とは明確に異質なものであった。キェルケゴールはそのようなあり方を理想と考えた。それはいわばヨーロッパ文明批判をも内包していたのだと思う。

また、『哲学的断片』では、理性中心のヘーゲル哲学への批判を行い、人間の個別性、実存性が浮き彫りにされ、ヘーゲル哲学の体系に与することのないあり方が提示される。

キェルケゴールの思想は、単独者の概念、国家教会批判、ヘーゲル批判などによって、20世紀のカール・バルトなどの神学にも強い影響を与えた。そのような流れでキェルケゴールを読めば、哲学史の中の一人の偉大な思想家だと思う。

だが、最近、私はキェルケゴールは神秘主義の思想家だと思うようになった。彼は、ヘーゲル的な弁証法的世界観を拒絶し、個別性や単独者という考え方を展開し、理性的な弁証法に対して立ち向かおうとした。それは国家教会批判につながった。そして、彼は逆説的な生きざまとしてイエスをとらえようとする。彼の立場は、神との相対の場は理性を超えた世界なのである。それは極めて逆説的に論証される領域ではあるが、そのような場を真に所有するのは論理的なものではなく、体験的なものにならざるをえないと思う。

およそ神秘主義は神と個人が直接交流できるという立場をとる。あるいは合一できるという言い方がよく用いられている。私は「合一」という言葉には少し慎重に距離をとりたいと思うが、いずれにせよ、神と人との関係の中に宗教的組織の介在は必要ではない。教会はなくとも信仰は成立する。そうなると、キェルケゴールが国教会を否定したこともうなづける。

理性を超えた逆説の世界において人はキリストと出会う。この考え方は、きわめて神秘的な神との出会いの世界だと思うのである。

いささかキェルケゴールについて、私の誤解があるのかもしれない。だが、私は彼の思想を吸収し、そこから神秘主義への経路を見出した者の一人である。

 

 

 

 


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