キリスト教会のトラウマ

20200902

私は現在も日本キリスト教団の牧師でもある。「でもある」というのは、昨年末をもって教会を辞し、いまは心理療法家として働いているからである。しかし、まだ牧師(正教師)として登録されている。そんな私の脳裏には、キリスト教会という集団をどのように見るのかということが時々かすむ。

とかく、日本の教会というのは社会問題に対して消極的である。その原因は、牧師時代から考え続けているが、つぎのようなことが思い当たる。

一つは、戦時下において日本の宗教は国家管理されたことと関係する。たとえば、宗教団体法という法律ができ、軍政下で日本のプロテスタント教会は大同団結をしいられた。各教派の特徴などあったもんじゃない。その大同団結の結果、日本キリスト教団が生まれ、教団代表は伊勢神宮へ参拝して教団誕生を報告した。

その後、教団全体が戦争協力へと駆り立てられたが、一部の良心ある人々は戦争への抵抗を示した。だが、とんでもない弾圧を受け、投獄や獄死すら起こった。礼拝に憲兵が来て、牧師の発言をチェックしていたという。

私の知人にも、「キリストと天皇陛下はどちらが偉いか」という質問を憲兵に投げかけられたというおじいさん(当時は青年)がいた。彼は天皇陛下もキリスト教の神様もどちらもこんな下々の者が比べるのも恐れ多いですと答えたそうだ。そして、その場を何とか切り抜けたと言っていた。

そんなとんでもない時代を通り抜ける間に、日本のプロテスタントはキリスト教の神が天皇制をも超えた唯一絶対の神だとは言わなくなった。いや、天皇制や政治には語らずという悪い癖ができたのだろう。

そして、戦後は戦後で大変だったようだ。GHQ統治下で宣教師たちが日本にやってきて教会をつくった。GHQの目が教会の中にも向けられたであろうことは想像される。しかし、まさか反米意識を持った教会を宣教師がつくることなどありえなかっただろう。

そうなると、戦時下で培った社会問題や政治には「見ざる、言わざる、聞かざる」というキリスト教会のスタンスは終戦後には自然と受け継がれることになったのだと思う。

今でも、キリスト教信仰はこの世の事にはかかわらないという調子だ。政治がらみのことについては、何も語ろうとしない。いや語っている人もいるにはいる。だが、少数派であることに違いはない。

では、現在はどうなのか。戦後75年、もう変わってもいいだろうと思いたい。だが、それでも変わりばえしない。その理由は何なのか。そもそも宗教とは何をめざすものなのか。

考えてみると、宗教に何を期待しているかは、人によって異なる。あるいは、言い方を変えると階層によって異なると思う。金持ちが私有財産を否定するような宗教に入ることは、ほぼほぼないか、とても珍しいことだろう。

あるいは、自分を鞭打ってくださいというような禁欲的自己否定など、あまりお目にかかったことがない。時代の権力と反目することなく、政治について語らないで天国のことのみを語る、そんな感じの人々が集まったところで、いきなり政治問題や社会問題と言っても彼らにはなじまない。

もちろん、平和を語る時もあるが、それも、戦争はいけないという道徳律的な教条を宗教的に焼き直したようなものとなる。

まさか、具体的に北朝鮮の核問題について語りはしないだろう。なぜなら、心の平和や平安はこの世の雑事と離れたところにあり、そんなものとは一線も二線も引いている小市民的思想が蔓延し、現実問題にはまったく歯が立たないような精神構造が構築されるのである。

いや、しかし、長崎のカトリックの殉教者や再洗礼派の非暴力平和主義による抵抗と殉教の歴史を考えるならば、キリスト教は本来反権力の宗教だったのではないのかと思う。

(堀 剛)


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戦争ドキュメンタリーを見て 20200831

夏になると戦争のドキュメンタリーや体験者による報告番組が放送されることが多い。今年はコロナのせいで自宅待機も多く、いくつも見ることができた。

見た後で、いつも残るのは何となく割り切れない気分である。それは後ろめたさのようでもあり、もどかしさのようなものでもある。

思うに、ドキュメンタリーが訴えてくれているのは、言うまでもなく、戦争がいけないというメッセージであるが、それに加えて考えさせられるのは、何をしていけばよいのかということである。

私も含めて、ほとんどの人が小市民の一人である。その立場からは、道徳律のように「戦争はいけない」というメッセージを胸にきざむことはできても、だから何をすべきということには結びつきにくいのだ。

戦争は絶対にあってはならないということ、そこ止まりでドキュメンタリーは終わる。当然だろう。それがドキュメンタリーの特徴のようなものである。それを受け止めて、さあどうするということは視聴者それぞれにゆだねられているのだと、とりあえず考えておきたい。また、こんなご時世だから、ドキュメンタリー番組で平和への具体的な行動のあり方を訴えたのでは、放送そのものができなくなる可能性もあるかもしれない。

ところで、歴史を振り返るには、振り返る視点と立ち位置が問われる。そして、歴史の中で起こった事実を正確に把握するために、何が原因となってそのようなことになったのかを正しくとらえる必要があると思う。戦争のドキュメンタリーはそのような振り返りよりも、悲惨さや悲しさを伝えるものが多いが、戦争責任の話はあまり明確でないものも多いと思う。しかし、ドキュメンタリーは視聴者が自分で考えはじめることへと判断をゆだねているのだとも思う。

原爆の記録をドキュメンタリー番組で見ると、こんなことをしでかしたアメリカに対して日本人はどう考えるのかという問いはほとんどない。因果関係を辿っていけば、太平洋戦争勃発の口火を切った日本側の責任へと話はつながることもある。誰を責めるでもなく、ただ戦争は絶対にやってはいけないというメッセージだけが語られる。

だがこうなると、原因は見えにくい。また、教訓を踏まえてどうあるべきかということになると、何をすれば良いのかが見えにくい。「戦争はいけない」ということはわかってはいても、だから、もどかしい。そして、割り切れないものを感じてしまうのだ。

そして、今後のアジアの中での日本がどうあるべきかということについても、非常にとらえにくい状況が生まれていると思う。     (堀 剛)


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宗教と神について 20200730

神が本当に存在するのだとすれば、神自らが神の存在を人間の世界に示せばよいのである。あるいは、神にとってそのような必要がないのかもしれない。そんな言い方はいささか乱暴なことだろうか。

人間の方は躍起になって神を信仰したり、神は存在するかどうかと真剣に論じている。また、神にすがろうとしたり、頼ろうとする人もいる。それでも、神の方から自らの存在をあらわにするというのでもない。

そもそも理性において、神認識が可能であると言えるのだろうか。人間の持つ心というものは形のないものである。それと同じく、神もまた形がない存在なのだとすれば、可視的な存在として神をとらえることはできないと言わねばならない。神の存在は物理的存在であるとはとうてい思えない。だから、理性においても、神の存在を確認することはできないと思われる。

そうだとすれば、神を認識する方法は、理性を主軸とするものでは起こりえないと考えざるをえなくなる。神を認識するのは、人間の意識が理性とは一線を引く時、心理変容の世界で可能となるのだと思う。そして、心理変容という事象はきわめて身体的なものを含んでいる。机上でのみ論じられる事柄ではない。そしてまた、心理変容は言語を超えた直感的なものを含んでいる。そのような中で初めて神の存在が感受されるのである。(こればかりは体験的なものであり、かつ意識をそのような状態に持って行くことが可能である人にしかなかなか判りづらいだろう。)

そこでもし、宗教に何らかの使命が存在するとすれば、宗教は神についての感受を人間に提供するひとつのあり方なのだと思う。

だがどうだろう、とかく宗教は神について語るが、人間の言語であたかも語りうるかのごとく宗教儀式の根幹部分に語りを置いているのが、プロテスタントの礼拝である。彼らは語るのみではなく、エクリチュールである聖書の中の言語で神を説明しようとする。

しかし、人間の言語で神について語るとしても、そこに言語を超えた変容の世界が伴わなければ、それこそ言語というツールを用いた共同幻想の中に埋没する可能性がある。日本語であったり、英語であったりというような人間の音声的な言語で神に、あるいは神を語ることができるという発想そのものが、理性的な枠組みから抜け出ていないのである。神に通じるためには、言語性を超えたところで神と相対していかなければならないと思う。

だが、本来、多くの宗教が私が考えるような変容の世界を持ち合わせているのだと思う。いや正確には、かつて持ち合わせていたと言う方が正確かもしれない。例えば、仏教におけるお経を唱えるということも、お経の中身の理解という論理的側面が重要であったとしても、唱えるという行為の中で心理変容ともなってくることの方が重要なのだと思う。

しかしながら、葬儀などにおいても、僧侶から唱えることの意義とお経そのものの意義を事前に説明を受けたことなど一度もない。そのことは極めて不可思議に思える。せめてその説明が事前にあれば、そこに参列する人は何に参加しようとしているのかくらいは心構えができようというものだ。それがいかほどの深みのあるものであろうが、なかろうが、参加者らはそれなりの備えをできるように思う。だが、それがなければ、そこに居合わせたということのみで、何らかの納得をせざるをえないし、儀式とはこんなものだとか、宗教とはこんなものだいうような納得をせざるを得ないだろう。これは宗教家としての僧侶にとっても一般の参加者にとっても残念なことだと思う。

話が少しそれたようだから、本論に戻ろう。一言で言えば、心理変容のない宗教はつまらない。また人は心理変容においてこそ癒される。これはユング心理学を起点とする様々な心理技法にとっても共通なことであるが、学説がどうあるかというようなことではない。

ところで、認知療法は心理変容というよりは、思考のあり方を論理的に変化させることを目指している。だが、第三世代の認知行動療法というものが既に紹介されるようになった。そこではマインドフルネスが唱えられ、呼吸を用い静かに自分を見つめようとする。これは私のように以前から催眠を学んで来た者にとっては、どうみても自己催眠の一つの技に思えてしまう。おそらく、それは認知療法家や認知行動療法のセラピストがかつては見向きもしなかったであろうものだと思う。

しかし、人間はやはりそのような変容へと行かざるを得ないのだ。心の救いとか、癒やしとはそういうものなのだと思う。(堀 剛)


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蔵書処分と思想の整理、あるいは自分探しへと・・20200723

 最近、多くの哲学書やキリスト教関係書を数百冊ほど古書店に引き取ってもら った。ヒプノワーク心理療法室を難波から堺市へ移転する際に、どうしても蔵書を処分せざるをえなくなったからである。

 心理学書、哲学書、キリスト教書、聖書注解書などがあったが、特にキリスト教書と哲学書を処分した。聖書の注解書をはじめ、 滝沢克己とか田川健三なども片っ端から売り払らった。哲学書については、解説書や研究書の類いを売り払った。ヴィトゲンシュタインやキェルケゴールに関する値の張った研究書もたくさん含まれていたと思う。

 だが、哲学者自身が執筆したもの、ヘーゲルなら『精神現象学』、カントならば『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』など、哲学者自身が書いたもの(もちろんほとんどが日本語訳でしかないが)は、手元に残すようにした。このような選別には深い理由がある。私にとって人生の時間はそれほど悠長なものではないと自覚したことによる。自分にとって重要なのは、自分の思考の道筋をつけていくことであり、脇道にも逸れかねないような哲学者の哲学をテツガクするというような解説的研究につきあっている暇はもうないと思うようになった。更に、引っ越しにともなって整理を進めなければどうしようもないと判断したからである。そう言えば、吉本隆明の全集も二束三文であった。滝沢克己も同様だ。自分としても、価値はそんなものだと思えたので、抵抗なく言い値で持って帰ってもらった。

 そういえば、ヴィトゲンシュタインがどこかで書いていた。ヴィトゲンシュタインが考えたことと同じようなことを考えた哲学者がかつて存在したかもしれないが、それは彼にとってはどうでもいいことであり、一切関係がないと。
 私が研究書を手放したのも同じことである。哲学者自身が語っている言葉は学んで行きたい。だが、その哲学者について哲学している哲学書というようなものは、いわば参考書のようなものである。もう人生にそんなものまで読んでいる余裕はない。哲学者の人物研究のようなものも、読んでおもしろいとしても深入りする暇はない。

 昔、キェルケゴールの歴史的研究方法というものがデンマークの研究者によって提唱された。1970年頃に日本でも大流行であった。彼の生涯を研究する人物研究が日本でも進められた。しかし今になって考えてみると、キェルケゴールがどんな人だったとか、コペンハーゲンのどこで倒れたかとか、レギーネ・オルセンはどんな女性だったかというようなネタは、それなりに何かを研究しているかのようでありながら、哲学をDoingすることとは違うような気がする。


 キェルケゴールは日記の中で、やがて世界中の学者が私の日記までくまなく調べて研究する日が来るであろう、と書いていた。別の箇所では、彼の婚約破棄の話を読み解く者こそ「私の思想の鍵を解く者である」と書いていたと思う。だが、そこまでキェルケゴールにつきあおうとも思わない。キェルケゴールにせよ、ヴィトゲンシュタインにせよ、私の導き手であったと思うが、彼らの哲学の文脈の中に私が入り浸ったのではなく、私自身の私的でちっぽけな文脈の中で、彼らの思想が道案内となったとは思う。

 ついでに言えば、私は人物研究は嫌いだ。人物研究などは大学教員が誰某の研究者とか、専門家とか名乗るには便利だろうが、それがどうしたとしか思えない。
 哲学をするということ、Doing philosophyなのであって、究極的には(私の好きなキェルケゴールやヴィトゲンシュタインも含めて)世界の誰が何を言おうが、最後は私は何を考えるかということに集約されることでしかない。要するに自分がどう思うか、どう考えるかということが哲学をするということだ。

 人は誰でも、明日にでも命が終わるかもしれないという可能性の中を生きている。もし、本当に終わりが到来したとする。その時、いや待ってくれ、私はまだ図書館の本を全部読み切ってはいないと叫んだとしよう。あるいは世界中の本をまだ読み終えていないとでも言ったとする。しかし、死は待ってくれない。自分から死をたぐり寄せるようなことは、絶対するべきではないと思うが、死の方から襲いかかってくることだってある。

 哲学=フィロソフィアとは知への愛であるが、覚えたこととしての知識の羅列とは異なる。だから、誰が何を言ったかを覚えていることを披露するのが哲学ではないことは言うまでもない。また、他人の思想の世話になった(影響を受けた)としても、居候はほどほどでなければならない。やがては自分で自分のけりをつける時が来る。そんなことを考えながら、多くの蔵書を整理したのである。  (堀 剛)


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「神秘主義と合一について」補足  20200525

「合一」という言葉は、まるで超越者との同一、あるいは図形で言えば合同のような感じがあるので、私には使いたくない言葉だ。

私の場合、超越者の存在は唯一のものであり、あるいは数として数えることすらできない存在という観念が自分の中にあるのかもしれない。

もしや、「合一」という言葉を使う人が、神や仏、超越者と合一するという際に、合一において自分が神となるというような意味で考えているとすれば、とんでもない間違いだと思う。

たとえば、仏という存在がどのようなものであるのか、私は正確にはわかっていないが、仏が多神教的に複数存在するのだとすれば、仏と合一すると言ってみたところで、複数のうちの一つと合一しているということになるのかもしれない。

合一というものは、親鸞的な言い方になるが絶対他力において実現すると思う。人間の側から超越者に合一することなどできない。超越者の側から人間に接近するというものでなければ、そのようなことは起こらないと思う。なぜなら、人間は無力であり、親鸞の言葉で言えば「悪人」であり、そのような存在が超越者に接近するのは、超越者の側からも働きがけがあってこそ起こるのだ。

だから、自分で苦行を行い、生きたまま即身仏になることなどは、あらゆる意味で疑問を感じてしまう。

繰り返し、合一について言えば、人間は祈りや瞑想の中で超越者と合一すると言っても、それは「一」になるのではなく、超越者の懐に抱かれるような状態を言うのだと思う。

 

 

 

 

 


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神秘主義と合一について      20200522

神秘主義と言えば、まるで異様な儀式を行う宗教を想像されるかもしれない。しかし、哲学や宗教学で使う「神秘主義」という言葉は、あくまでも超越的な存在に人間がつながることができるという立場のことを言う。

ネットで三省堂「大辞林 第三版」を拝読すると、神秘主義の説明は次のように書かれている。「絶対者・神などの超越的実在は、感覚や知性の働きによっては認識できないので、それらを超えて何らか直接に体験しようとする」とある。

要するにこれは一つの立場であって、実践的に絶対者や神を体験しようとする、あるいは人間にはそれが可能であるという立場が神秘主義であると言える。

ところで、少し思うことがある。それは「合一」という言葉についてである。たとえば、仏と合一するとか、神と合一するという類いの言い回しである。私はこの言葉には少し慎重になりたい。

私自身も「合一」というふうに表現される世界を体験したことがないわけではない。私は瞑想によって、それを行っているし、催眠の中でも体験が可能だと考えている。

しかし、「合一」という言葉はまるで仏や神と自分が一体であるかのような感じであるが、だからと言って「自分が神である」とか「自分も神である、仏である」というようなものではない。

このようなことは人間の側からは言えないことである。たとえ、通常の意識を離れて超越的な存在とつながっているという感覚を瞑想の中で感じているとしても、そのように感じている私という意識は私の限界の内側に存在する。その意識は神的でもなんでもない。人間の意識にすぎない。

瞑想においては、確かに自分で何かを意識することを離れるところに入ってしまうことがある。その段階では意識というものはまったく別次元に飛び込んでいるかのように思う。おそらく仏教でいう「止観」とはこのようなものだろう。

では、このような瞑想をしているからと言って、神と合一していますなどという傲慢な表現は避けなければならない。だが、合一を説く時に、神という絶対他者など存在しないと述べて、あえて他者ではなく合一するのだという言い方がなされる場合がある。しかし、私は絶対他者は存在すると思う、あるいは人間はその存在を否定も肯定もできないと思う。なぜなら、人間は有限であり、絶対他者は無限であるからだ。

瞑想においては、あえて合一という言葉で言うならば、確かに自分が何かと合一しているのだろう。しかし、相似と合同という図形の言葉があるように、おそらく、相似のように人間の中にある部分が溶け合うような相似部分を得ている状態なのだろう。だが、合同ではない。部分が超越者につながってはいるのだろう。だが、自分の側が超越者と合同とか等価となっているなどというものではありえない。ましてや、自分が神なんだというようなことはありえない。

人間は自力で超越者に到達できない。なぜなら、人間は有限な存在に過ぎない。しかし、超越者は無限な存在である。有限な存在は自分の限界を超えた無限な存在を把握できない。

仮に合一が起こったとしても、超越者の全体の何と、あるいはどの部分と、どれほど深く、どれほど広く合一しているのかを知ることはできない。ただただ、超越者に自らがとらえられているに過ぎない。それゆえ、「合一」という言葉は私個人としては使うことを避けたいし、ましてや合一によって、人間が神であるなどというのはありえない。幻想であると思う。

 

 

 


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キリスト教宗教学

宗教と心理変容     20200519

(先ほど、「隠れキリシタンの里を訪ねて」という文章を「論稿」の中に追加しました。宜しければお読みください。)

隠れキリシタンの宗教には、ユング心理学などで言う心理変容の世界があったのだと思う。

芸術においても、音楽においても、いわば陶酔の世界が存在する。例えば、祭りだってそうだろうし、盆踊りなどは、死者の霊が戻ってくるお盆に行うのであるから、踊りながら陶酔し、交霊することが原点として存在したのではないかと思う。

私は踊るのは苦手だし、へたくそである。だから、踊ろうとは思わないが、盆踊りが好きな人に言わせると、手のひらの動かしかたが非日常的であり、次第に陶酔してしまうという。

ところで、心理変容を重視するのは宗教では、個々の信者がそれぞれ思い思いの陶酔や神との合一を体験するということかもしれない。宗教におけるこのような面は極めてアナーキーな状態であると思う。

これに対して、カトリック教会などが代表例だと思うが、神との対話役は神父がいる。信者と神をつなぐのは神父である。それは組織としてはうまい考え方である。個々の信者がアナーキーに神的体験などしようものなら、組織統制などあったものではない。だからかどうかは定かとは言えないにしろ、神父がいることで組織形態が出来上がる。

個々それぞれに信者は神とつながる心理変容をするのだとすれば、教会も神父もいらないことになる。個人的にはこちらが自分の好みでもある。心理変容を唱える宗教は神秘主義的だし、アナーキーだと思う。

そして、心理変容のない宗教はつまらない。


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緊急事態宣言 39県の解除に思う

緊急事態宣言が39県で解除されることになりました。経済を考えると急ぐのもわからないではないのですが、大きな疑問が残ります。たとえば、NHKのニュースで緊急事態宣言解除が報じられている中で、解説者の一人が「検査(PCR検査・抗体検査)が普及すると、陽性率が上がる」という言葉を語りました。それ以上、説明のコメントはなく、文脈が流れて行きましたが、これは検査が普及すれば、感染者がいま以上に発見される確率が伸びるという意味で語られたのだと思います。

問題は陽性率の統計の数字ではなく、実際の感染者すうであり、誰が感染しているかです。

宣言の解除基準の一つである陽性率は、本当ならば日本に住む全員を分母として計算しないかぎり出せない数字です。それを調べると確率が上がるから調べないという分けにはいかないでしょう。

不思議に思うことだらけですが、国会でも大阪府議会でも、テレビで見ると、みんなマスクをしています。当然、そうあるべきでしょう。みんな密を避け、マスクをしています。

ところで、議員さんたちもPCR検査を受けていないのでしょう。とはいえ、いくら検査が普及していないとはいえ、議員さんが優先的にPCR検査を受けたとしても誰も文句は言わないと思います。党派を超えて、一応、みなさん社会の重責を担っておられるのでしょうから。

マスクはした方がいいのは言うまでもありませんが、検査をしていれば、さらに議員さんたちの間では、コロナを封じ込めるはずです。

検査の徹底普及がないままで、なぜ緊急事態宣言の緩和がありうるのか、疑問が残ります。もっとも、経済を考えると限界だということもわかります。だからこそ、検査を普及して感染者の隔離と治療を推し進め、社会を段階的にもとに戻すという丁寧な作業が求められていると思うのです。

20200514

 


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日本からPCR検査機をフランスへ輸出

目を疑うような記事が、2020年05月08日(金)付朝日新聞に掲載された。

友人からこの記事について知らされ、検索するとすぐに見つかった。タイトルは「全自動コロナPCR検査機日本メーカーフランス政府から表彰」この記事は掛下法示(かけしたのりじ)さんという矢板市議会議員によるものらしい。

PCR検査が不足しているはずの日本が、検査機器を輸出しているというのは初耳である。しかも、「この検査機は、検体を検査機に入れるだけで、検査結果が1-2時間後に出てくる。1日の検査能力は240検体(人) 可能。定価は800万円から2000万円。」とのことである。「フランスをはじめ世界各国に2015年より輸出している」らしいが、「やっと日本での医療機器の承認手続きを開始している」ということらしい。

マスクを配るよりも、こちらの方が先だろう。これから先、検査で調べることなしに「3蜜」を避けるだけでコロナが終息するのか。ただ闇雲に感染を警戒して社会の部分閉鎖を続けることなどいつまで続けることができるのか。

 新型コロナウイルスを想定した「新しい生活様式」」をなどと実しやかによく言えるものだ。家庭でも横並びに食卓につけというのは、ありえないだろう。こんなことまで国家は指示するのか。

安部首相も政府も何でもコロナウイルスのせいにはできないはずだ。いまや対応のまずさによる人災ではないのか。

 朝日新聞のその記事では、次のように締めくくられている。「日本には優れた検査機メーカーもあり、早く導入促進して、早く1日検査能力10万人以上確保してほしいものだ。」

記事紹介のついでに言いたい。なぜ政府は積極的にコロナウイルスに感染した人を調べようとしないのだ。感染者を治療し隔離することなしに、経済活動が可能な地域、部分社会を復活させることは困難ではないのか。

 


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PCR検査を実施してください! part2  20200508

2020年3月11日、WHOが新型コロナウイルスのパンデミック宣言を出した。その後、3月16日にテドロス事務局長は「誰が感染しているか分からなければパンデミックを止められない」と検査の徹底を呼びかけた。(https://news.yahoo.co.jp/byline/kimuramasato/20200416-00173674/)

本当にこれは妥当な呼びかけだったとつくづく思わされる。

日本では「3密」とか「密です」とか、誰が感染者かもわからない(調べない)のに、人と人がとにかく接触しなければ感染は抑えられるような言い方がなされている。そして、4月中旬頃までPCR検査の普及の必要性がマスコミでもあまり語られなかった。その結果、いまだ予防のために検査を受けるというようなことは、まったくできない。

現実味(論理性)の欠落した予防策はアベノマスクに象徴されている。これが閣議決定されたのは4月7日であった。すでにWHOが検査の必要性を訴えてから3週間ほど後のことだ。我が国策では、マスク予防の発想しかなかったと言える。(もっとも、現在5月8日であるが、大阪の私のところにアベノマスクは届いていない。だが、普通の食品スーパーのレジ横に5枚入り380円のものが売られているではないか。)

国や行政の支援にも経済的限界があり、財政破綻が来ない保証はない。国家のツケはやがて国民に返ってくるものでしかない。国や政治家は経済支援がいつまで続けられるのか、その懐をしっかり見積もるべきだと思う。そして、どの期間内にコロナ終息、あるいは「出口」に至ることができるのかを示してほしい。

検査を徹底して普及するにも莫大な予算が必要だろう。だが、経済活動の停止には限界があるはずだ。それならば、検査の徹底実施で方向性をつかむべきではないのか。出口のない戦いではなく見通しのある戦いを実施するには、積極的なコロナ封じ込め作戦として、どこにコロナが潜んでいるかを調べるべきだろう。もし、このまま経済停止を続ける場合の損失と徹底した検査普及の道とどちらを取るのかを決めるべきだと思う。莫大な費用であっても、徹底した検査と隔離による治療を実施するならば、出口をたぐり寄せることができるはずだ。

今からでも遅くはない、というよりは、やるしかないのでは? まずは徹底した検査普及をすべきだ。検査が万能でないのはわかりきっている。しかし、経済を死なせないために、検査によって安全確認をしながら社会を少しずつ稼働するべきだ。出口の数値目標は、予防のみで達成できるとは思えない。また、その程度で達成できるものならば、それはあまりにも楽観的な数値目標だと思わざるをえない。

検査によってコロナをコントロールする。そして、やがて検査結果からほぼ全員が大丈夫と言える学校のような部分社会が出てくれば、順次活動を再開できるはずだ。コロナに感染していない子ども同士を引き離しても意味がない。感染していないことを確認して、以前の状態へ戻していく順序が必要だろう。ひたすら閉鎖、封鎖、自粛では社会的消耗としか思えない。

 


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